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江戸の両替商と三貨制度 ― 金・銀・銭、三つのお金が並んでいた国
同じ国の中なのに、江戸と大坂で使うお金が違う。そう聞くと不思議に思われるかもしれませんが、江戸時代の日本ではそれが当たり前でした。江戸では金貨で値段を数え、大坂では銀貨を天秤で量り、街道の茶店では銭を払う。三つのお金のあいだには日々動く交換の相場があり、その相場を立て、両替を引き受け、遠く離れた町どうしのお金のやり取りまで取り持ったのが両替商です。この記事では、江戸の木綿問屋で働く架空の手代、清七の旅に付き添いながら、三貨制度の仕組みを一つずつ見ていきます。
この記事の歩き方 ― 架空の手代と東海道を行く
この記事の案内役は、19世紀のはじめごろ、江戸の日本橋にある木綿問屋で働く手代の清七です。清七は実在の人物ではなく、当時の仕組みを説明するためにつくった架空の人物です。主人の言いつけで大坂の取引先へ代金の相談に向かう、という設定で旅をしてもらいます。
道中に出てくる交換の相場や金額は、仕組みを分かりやすくするための架空の数字で、実際のある日の相場を示すものではありません。一方、三貨制度の単位や、幕府が定めた交換比率の目安、両替商の制度などは、一般に知られている概要にもとづいて書いています。制度の細部や年代は資料によって表現が異なることがあるため、おおよその姿をつかむための読み物として受け止めていただければ幸いです。
なぜ投資を学ぶサイトで江戸のお金を扱うのか。それは、二つの違うお金のあいだに相場が立ち、その相場が動き、差を取ろうとする人が現れるという為替の基本的な姿が、三貨制度の中にほぼそのまま見えるからです。ドル円のニュースを見るとき、この旅のことを思い出してもらえれば、数字の背後にある仕組みが少し身近になるかもしれません。
出発の朝 ― 江戸の財布は「金」で整える
旅立ちの朝、清七は番頭から預かった小判と、一分金、それに銭の束を確かめます。江戸の大店どうしの取引では、値段は金の単位で数えるのが普通でした。江戸時代のお金の使われ方は、しばしば「江戸の金遣い、大坂の銀遣い」と言い表されます。東日本では金貨が、西日本では銀貨が取引の主役だったという意味です。
金貨は、一枚ごとに額面が決まっていて、枚数で数えるお金でした。こうしたお金を計数貨幣と呼びます。単位は両・分・朱で、1両は4分、1分は4朱、つまり1両は16朱にあたります。現代の私たちが慣れている十進法ではなく、4ずつで繰り上がる四進法だった点が特徴です。小判1枚が1両、一分金1枚が1分というように、額面と枚数が結びついていたので、数えるのは比較的簡単でした。
東と西で主役のお金が分かれた理由には、いくつかの説明があります。東日本には佐渡などの金山があり、西日本には石見などの銀山があったこと。また、上方の商人たちが古くから海外との交易などで銀を使ってきた伝統があったことなどが挙げられています。どれか一つの理由で決まったというより、産地と商習慣が重なった結果だと考えるのが自然でしょう。
三つのお金の物差し
清七の財布の中身を整理するために、ここで三つのお金の単位と性格を表にまとめておきます。三つのお金は、単位の数え方も、価値の決まり方も、使われる場面も違っていました。
| お金の種類 | 主な単位と換算 | 数え方 | 主に使われた場面 |
|---|---|---|---|
| 金貨(小判・一分金など) | 1両=4分=16朱(四進法) | 枚数で数える(計数貨幣) | 江戸を中心とする東日本の大きな取引 |
| 銀貨(丁銀・豆板銀) | 1貫=1,000匁、1匁は約3.75グラム | 重さを量って使う(秤量貨幣) | 大坂・京都を中心とする西日本の商取引 |
| 銭(寛永通宝など) | 1貫文=1,000文 | 枚数で数える | 宿代や買い物など、全国の小口の支払い |
| 公定の交換比率(目安) | 1両=銀50匁(のち60匁)=銭4貫文 | 幕府が示した建前の比率 | 実際には日々の相場で取引された |
表の最後の行にあるとおり、幕府は金・銀・銭の交換比率を定めていました。慶長14年(1609年)には金1両を銀50匁、銭4貫文とし、元禄期以降は銀60匁を目安とするようになったとされます。ただし、この比率は建前にとどまり、実際の取引では両替商が立てるその日の相場で交換されるのが普通でした。お金の中身が改鋳によって変わることもあり、決められた比率だけで市場の値段を縛ることは難しかったのです。
金と銭は枚数で数え、銀だけは重さで量る。この違いは、旅の途中で何度も清七を悩ませることになります。
宿場で使うのは銭
東海道を西へ進む清七が、茶店の団子や宿代、荷物を運ぶ人足への駄賃を払うのに使うのは銭です。寛永通宝に代表される銅の銭は全国に広く出回り、庶民の日々の暮らしを支えるお金でした。1文銭を千枚集めると1貫文になります。重くかさばるので、穴に紐を通して束ねた緡銭として持ち歩くのが一般的でした。
この緡銭には面白い慣行がありました。銭96枚を束ねたものを100文として扱う、九六銭と呼ばれる習わしが広く行われていたとされます。差の4枚は、束ねる手間賃のようなものだったと説明されることが多いようです。額面と実際の枚数が少しずれていても、皆がその決まりを受け入れていれば、お金としては問題なく通用する。お金の価値が、中身だけでなく人々の約束事によっても支えられていたことを示す小さな例です。
宿場で小判を出しても、おつりを用意できる店はまずありません。そのため清七は、江戸を出る前に一部の金を銭に替え、道中でも足りなくなれば宿場の両替屋で替えてもらいます。金と銭の交換にも相場があり、幕府の公定比率どおりとは限りませんでした。銭が大量に鋳造された時期には銭の値打ちが下がる、つまり1両で手に入る銭の枚数が増えるといった動きもあったとされます。小口のお金と大口のお金のあいだにも、ちゃんと為替があったのです。
大坂に着く ― 天秤で量るお金
半月ほどの旅を経て大坂に着いた清七は、町の空気の違いに戸惑います。商人たちが口にする値段は、両ではなく匁なのです。大坂を含む上方では、取引は銀の重さで数えるのが当たり前でした。
上方で使われた丁銀や豆板銀は、形も大きさもそろっていない銀の塊でした。額面が刻まれているわけではないので、使うたびに天秤で重さを量り、何匁あるかを確かめて受け渡します。こうしたお金を秤量貨幣と呼びます。重さが価値そのものなので、量り方が正しいかどうかが取引の信頼を左右しました。両替商の店先には天秤と分銅が欠かせず、分銅は幕府に認められた特定の家だけがつくることを許されていたとされます。
それでも、取引のたびに一つずつ量るのは手間がかかります。そこで、決まった重さの銀を紙で包んで封をし、封を切らずにそのまま受け渡す包銀という方法も使われたと伝えられています。包みに記された重さを、封をした者の信用によって受け入れるという仕組みです。量るお金でありながら、実際には信用によって数えるお金に近づいていったとも言えるでしょう。
その日の相場で替える ― 清七の両替
大坂で支払いをするには、江戸から持ってきた金を銀に替えなければなりません。清七は取引先に紹介された両替商の店を訪ね、小判10両を銀に替えてもらうことにします。ここからは架空の数字で考えます。手数料は話を簡単にするために考えないことにします。
幕府の示す目安どおりなら、1両は銀60匁なので、10両は600匁になるはずです。ところが、その日の店先で示された相場は1両につき銀63匁でした。清七が受け取る銀は63匁の10倍で630匁になり、目安で計算した600匁より30匁多くなります。30匁は600匁の5%にあたります。同じ10両でも、どの日に替えるかで手に入る銀の量が変わるのです。
用事を終えて、残った銀を江戸へ持ち帰る前に金へ戻す場面も考えてみましょう。仮に帰る頃の相場が1両につき銀58匁に下がっていたとします。630匁を58匁で割ると約10.86両、つまり10両と3分あまりになります。行きと帰りで相場が清七に有利な方向へ動いたため、金で数えると元の10両より少し増えた計算です。もちろん、相場が逆向きに動いていれば、金で数えた財布は目減りしていました。
この相場は、どこで決まっていたのでしょうか。大坂では、両替商の仲間が集まる立会いで金と銀の相場が立てられ、その様子は有力な両替商によって監督され、奉行所へ報告されていたとされます。相場が動く理由としては、江戸と上方のあいだの取引の偏り、年貢米が売られてお金の需要が増える季節の動き、改鋳による金貨や銀貨の中身の変化などが挙げられています。
清七の例で大切なのは、自分の財布の中身は何も変わっていないのに、どちらのお金で数えるかによって、財産が増えたようにも減ったようにも見えるということです。この感覚は、現代で外貨建ての資産を持つときの感覚とまったく同じです。
図で見る ― 三つのお金と両替商
ここまでの話を一枚の図にまとめておきます。三つのお金はそれぞれ別の場面で主役を務め、そのあいだを両替商が結んでいました。
図の三本の線は、どれも動く相場でした。現代でいえば、円とドルとユーロのあいだにそれぞれ為替レートがあり、それが毎日変わっている状態に近いと言えます。ただ、江戸時代にはこの三つが一つの国の中で同時に使われていたという点が、現代と大きく違うところです。
本両替と十人両替 ― 江戸の銀行
清七が訪ねた両替商は、単にお金を交換するだけの店ではありませんでした。両替商は大きく、金銀の両替に加えて預金の受け入れや貸付、手形の発行まで手がける本両替と、主に銭の両替を扱う銭両替に分かれていたとされます。本両替の仕事は、現代の銀行の業務とかなり重なっています。
大坂では、寛文10年(1670年)ごろ、奉行所が資産と信用のある両替商を選んで十人両替と呼ばれる役につけたとされます。十人両替は両替仲間をまとめ、幕府の公金の出し入れを扱い、金銀の相場の立会いを監督して報告する役割を担いました。名前は十人でも、実際には定員に満たないことが多かったとも言われます。江戸でも、有力な両替商が幕府の公金の送金などを請け負っていました。
大坂の商人たちのあいだでは、両替商に銀を預けて受け取る預り手形や、それを支払いに回す振手形が広く使われたとされます。重い銀を毎回運ぶ代わりに、両替商の信用を背景にした紙が受け渡されたのです。紙幣や小切手に近い役割を、民間の両替商の手形が果たしていたとも言えます。お金の正体が、金属そのものから、それを預かる者への信用へと少しずつ移っていく様子が、ここにも見て取れます。
帰りは身軽に ― 為替手形という知恵
大坂での用事を終えた清七には、もう一つ仕事がありました。取引先から受け取った代金を江戸の店へ届けることです。重い銀や小判を背負って東海道を戻るのは、盗難の心配もあり、骨も折れます。そこで清七は、両替商に代金を払い込み、江戸の両替商で受け取れる為替手形を組んでもらいます。清七が持ち帰るのは、紙一枚だけです。
この仕組みが成り立つのは、江戸と大坂のあいだに、反対向きのお金の流れが両方あったからです。江戸の問屋は上方から多くの品物を仕入れていたため、代金を大坂へ送る必要がありました。一方で、幕府や諸大名は大坂で年貢米などを売ってお金を手にし、それを江戸で使う必要がありました。両替商はこの二つの流れを帳面の上で突き合わせ、実際に街道を運ぶお金をできるだけ少なくしたとされます。
互いの支払いを突き合わせて、差額だけを動かす。この考え方は、現代の銀行どうしの決済や、国をまたぐ送金の仕組みの土台にもなっています。私たちが銀行振込をするときも、現金が実際に運ばれているわけではありません。三百年前の両替商の帳面は、現代の決済網の遠い祖先と見ることもできるでしょう。
比率のずれが金を流出させた ― 幕末の開港
清七の時代から半世紀ほどのち、三貨制度は大きな試練を迎えます。安政6年(1859年)に横浜などの港が開かれ、外国との貿易が本格的に始まったときのことです。問題になったのは、金と銀の交換比率が、日本の国内と海外とで大きく違っていたことでした。
当時の日本の国内では、金と銀の交換比率がおよそ1対5程度だったのに対し、海外ではおよそ1対15程度だったとされます。具体的な数字は資料によって幅がありますが、日本では金が銀に比べて割安だったことになります。理屈の上では、海外から銀を持ち込んで日本で金に替え、それを海外へ持ち出して銀に戻せば、元の銀が何倍にも増える計算になります。実際に外国の商人たちが銀貨を持ち込み、日本の金貨が国外へ流れ出したと言われています。
幕府は翌万延元年(1860年)、小判に含まれる金の量をそれまでのおよそ3分の1に減らした万延小判をつくり、金と銀の比率を海外の水準に近づけました。これによって金の流出はまもなく収まったとされます。その一方で、お金の中身が大きく変わったことは国内の物価の急な上昇を招き、幕末の社会を揺さぶる一因になったと見られています。流出した金の量については、研究によって推計に大きな開きがあります。
この出来事は、二つの市場で同じものの値段が違うと、その差を取ろうとする動きが起き、値段がそろうまで続くという市場の性質を示しています。現代の言葉でいえば裁定取引です。国内だけで通用していた比率は、外の市場とつながった瞬間に維持できなくなりました。為替の相場が、一国の都合だけでは決められないことを示す歴史上の例として、しばしば紹介されます。
両から円へ
明治維新のあと、明治4年(1871年)に新貨条例が定められ、日本のお金の単位は円・銭・厘に改められました。1円は100銭、1銭は10厘という十進法です。旧来の1両はおおむね1円にあたるものとして扱われたとされます。金・銀・銭が並び立ち、四進法と重さと枚数が入り混じっていた時代は、ここで一つの区切りを迎えました。
単位を一つにそろえ、数え方を十進法にするという改革は、取引の手間を大きく減らしました。清七が宿場ごとに銭の束を数え、大坂で天秤の目盛りを見つめていた苦労は、少しずつ過去のものになっていきます。その後、近代的な銀行の制度が整い、日本銀行が設立されて紙幣の発行を担うようになると、両替商の多くは銀行へと姿を変えていきました。
現代のドル円に置き換えると
三貨制度の旅を、現代の為替に重ねてみます。まず、為替レートとは二つのお金の交換比率だということです。江戸と大坂で使うお金が違ったように、日本と米国では使うお金が違い、そのあいだに日々動く相場が立っています。清七が1両を何匁に替えられるかを気にしたように、私たちは1ドルが何円かを気にしているわけです。
次に、両替には費用がかかるということです。江戸の両替商が手数料を取っていたように、現代でも銀行などで外貨を買うときと売るときでは使われる値段が違い、その差が実質的な手数料になっています。何度も替えれば、そのたびに少しずつ目減りします。外貨を扱う際には、相場の動きだけでなく、交換にかかる費用も確かめておく必要があるとされます。
三つ目は、決められた比率と市場の相場の関係です。日本でも、かつて1ドルを360円とする固定の相場が長く続いた時代がありましたが、1970年代に今のように相場が日々動く仕組みへと移りました。幕府の公定比率が実際の相場に追いつけなかったように、市場の力と決められた比率とのあいだには、いつも緊張関係があります。
そして最後に、外貨建ての資産を持つことは、清七が大坂の銀を手元に残しておくことに似ています。銀そのものの量は変わらなくても、金で数えた価値は相場とともに増えたり減ったりします。外国の株や債券を持つときも、資産そのものの値動きに加えて、円で数えたときの価値が為替で動くことを意識しておくと、値動きの理由を落ち着いて読み解きやすくなるでしょう。
タルムードの視点 ― 正しい秤と、約束の確かさ
ユダヤの伝統では、商いで正しい秤と正しい分銅を使うことが繰り返し求められてきたとされます。聖書にも正しい天秤と正しい重りを用いよという趣旨の言葉があり、タルムードにも量りや升の扱いをめぐる細かな議論が収められていると伝えられています。重さで量る銀を扱った江戸の両替商にとって、天秤の正しさがそのまま店の信用だったことを思うと、遠く離れた二つの伝統が同じ点に目を向けていたことが分かります。
現代の私たちにとっての秤は、為替レートや手数料の表示かもしれません。どの値段で替えられ、どれだけの費用が差し引かれるのか。その目盛りを自分で確かめる習慣は、昔もいまも、損を避ける第一歩になります。
また、伝統には「保証人になることを軽々しくするな」という言葉も伝えられています。為替手形や預り手形を受け取ることは、紙そのものではなく、それを出した両替商の約束を受け取ることでした。約束を出す側が確かでなければ、紙は紙に戻ってしまいます。そして、江戸と大坂という二つの物差しを行き来した清七のように、異なる見方から学ぶ姿勢も、相場と付き合ううえで役に立つはずです。
参考情報
江戸時代の貨幣や両替商の歴史については、日本銀行が貨幣博物館などを通じて解説を公開しています。現代の日本の通貨制度や貨幣の製造については、財務省が情報を公開しています。本記事の単位や公定の交換比率、年代は一般に知られている概要にもとづいており、道中の相場や金額は仕組みを説明するための架空の数字です。幕末の金銀の比率など、資料によって数値に幅があるものについては、おおよその目安としてお読みください。