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元禄の貨幣改鋳 ― 小判の金を減らした荻原重秀と江戸の物価
お金の価値は、どこから来るのでしょうか。金や銀そのものの重さなのか、それとも「これはお金だ」と皆が受け入れることなのか。江戸時代の日本では、この問いをめぐって幕府の中枢が真っ二つに割れた時期がありました。主役は、小判に含まれる金を減らして枚数を増やした勘定方の役人、荻原重秀です。この記事では、重秀と、彼を激しく批判した新井白石、そしてのちに再び改鋳に踏み切った徳川吉宗という三人の選択を追いながら、通貨の量と物価の関係を歴史から考えます。
「瓦礫でもかまわない」と言ったとされる男
荻原重秀という名前は、教科書では「貨幣の質を落として物価を上げた役人」として短く紹介されることの多い人物です。後世の書物には、重秀が「貨幣は国家がつくるものであり、たとえ瓦礫で代えたとしても通用させることができる」という趣旨のことを語ったと伝えられています。金や銀の重さこそがお金の価値だと考えられていた時代に、これはかなり大胆な考え方でした。
この言葉が本当に重秀の口から出たものかどうかは、はっきりしません。伝えたのが重秀に批判的な立場の記録であることもあり、言い伝えとして受け止めておくのが穏当です。それでも、この一言がいまも語り継がれているのは、お金の価値は中身の金属ではなく、発行する側への信用と、それを使う人々の受け入れによって支えられているという、現代の通貨に近い発想を含んでいるからだと考えられます。
この記事は、江戸時代の貨幣政策を通じて、通貨の量と物価の関係を学ぶことを目的とした歴史の解説です。特定の資産や商品の売買を勧めるものではありません。また、江戸時代の物価や貨幣の数値は資料によって幅があるため、本文では一般に知られている概数にとどめ、評価が分かれる点はそのように断って紹介します。
綱吉の時代と、底の見えてきた金蔵
重秀が登場するのは、五代将軍の徳川綱吉の時代です。元禄と呼ばれるこの時期は、上方を中心に町人の文化が花開き、商いが大きく広がった時代として知られています。ところが、華やかな世の中の裏側で、幕府の財布は苦しくなっていました。
理由はいくつか挙げられています。江戸幕府の初期を支えた金山や銀山の産出が、このころには大きく落ち込んでいたとされます。明暦3年(1657年)の大火で江戸の町の多くが焼け、その再建に多額の費用がかかりました。さらに綱吉の時代には寺社の造営なども重なり、支出は膨らむ一方でした。新しい金銀が掘り出せないのに使うお金は増えるのですから、手元の蓄えが減っていくのは避けられません。
一方で、世の中の側にも別の変化が起きていました。商いが広がり、取引の回数も金額も増えていくと、それを回すためのお金も多く必要になります。ところが金銀の産出が細っているため、出回るお金の量は思うように増えません。経済の体が大きくなったのに、血液にあたるお金が足りない。のちの研究者のなかには、元禄期の通貨不足をこのように捉え、重秀の改鋳を理解しようとする見方もあります。
勘定所の実務家、荻原重秀
荻原重秀は、幕府の財政を担う勘定所の役人でした。若いころから年貢や土地の調査といった実務に携わり、数字に強い人物として頭角を現したとされます。元禄8年(1695年)の改鋳を建議したときは勘定吟味役という、勘定所の仕事を点検する立場にあり、翌年には財政の責任者である勘定奉行に就いたと伝えられています。
重秀が置かれていた状況を、現代の言葉で整理するとこうなります。歳入を増やす手段は限られ、年貢を大きく引き上げれば農村の暮らしを圧迫します。支出は簡単には削れません。新しい金銀は掘れない。こうした制約のなかで重秀が目をつけたのが、すでに世の中に出回っている小判や銀貨を集め、中身の金銀の割合を下げて鋳直すという方法でした。
この方法には、増税とは違う特徴があります。誰かから直接お金を取り立てるわけではないため、表立った反発は起きにくい。しかし、お金一枚あたりの中身が薄まることで、その価値がじわじわと目減りする可能性があります。目に見える負担を避ける代わりに、目に見えにくい形で負担を広く薄く配る方法だったと言い換えることもできるでしょう。
小判の中身を減らすという方法
改鋳の仕組みそのものは単純です。幕府は世の中から古い慶長小判を集め、金の割合を下げた新しい元禄小判に鋳直しました。慶長小判は金の割合が約86%とされていたのに対し、元禄小判は約57%まで下げられたと伝えられています。重さはほぼ同じでしたから、小判1枚に含まれる金の量はおよそ3分の2に減ったことになります。
金の割合を下げれば、同じ量の金からより多くの小判をつくれます。古い小判100枚分の金で、新しい小判を150枚ほどつくれる計算です。幕府はこの差、いわば金を薄めた分の利益を出目と呼ばれる収入として手にしました。その額は多額にのぼったとされ、幕府の財政を一時的に立て直す効果があったと考えられています。銀貨でも同じように銀の割合を下げる改鋳が行われ、その後の宝永年間には、銀の割合が2割ほどまで下がった銀貨もつくられたとされます。
図を見ると、小判の金の量は一方向に減り続けたわけではなく、減らしては戻し、また減らすという往復をしていることが分かります。この往復の一つひとつに、それぞれの時代の為政者の考え方が表れています。元禄で3分の2に減り、宝永では慶長の半分ほどまで減り、正徳でほぼ元に戻され、元文で再び6割弱に下げられました。以下では、この往復を順に見ていきます。
ここで一つ注目したいのは、新しい小判と古い小判が、同じ「一両」として扱われたことです。中身の金が多い古い小判を持っている人にとって、それを金の少ない新しい小判と同じ一両で引き換えるのは損な取引です。そのため、古い小判を手放さずにしまい込む人が出て、回収が思うように進まなかったと伝えられています。質の悪いお金が出回り、質の良いお金は手元に隠されるという現象は、のちに「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉で知られるようになるものです。
物価はどうなったのか
では、改鋳のあと物価はどうなったのでしょうか。一般には、元禄の改鋳をきっかけに米をはじめとする物の値段が上がったとされています。小判1枚あたりの金が減れば、同じ品物を買うのにより多くの小判が必要になる。お金の量が増えれば、お金一枚あたりの値打ちが下がる。こうした説明は分かりやすく、教科書的な理解として広く知られています。
ただし、物価の上がり方やその原因については、研究者のあいだでも見方が分かれています。元禄から宝永にかけての時期には、元禄16年(1703年)の元禄地震、宝永4年(1707年)の宝永地震と富士山の宝永噴火といった大きな災害が続き、凶作の年もありました。災害や不作で物が足りなくなれば、お金の量とは関係なく物の値段は上がります。物価の上昇のうち、どこまでが改鋳によるもので、どこからが災害や天候によるものかを切り分けるのは簡単ではありません。
また、改鋳による物価の上昇は、元禄の改鋳から一気に起きたというより、その後に続いた銀貨の度重なる改鋳によって強まったとする見方もあります。重秀は晩年、銀の割合を大きく下げた銀貨を短い間隔で次々と発行したとされ、これが物価の混乱を深めたと批判されることが多いようです。最初の改鋳と、その後の度重なる改鋳とでは、評価を分けて考える必要があるのかもしれません。
ここから学べるのは、物価の動きには一つの原因だけでは説明できないことが多いということです。現代でも、物価の上昇がお金の量によるものか、エネルギーや食料の不足によるものか、人手不足によるものかで、適した対応は変わります。数字が上がったという事実と、その原因の解釈は、分けて見ておくのが無難です。
新井白石の反撃と、正徳の「良貨」
重秀の政策に最も強く反対したのが、六代将軍の徳川家宣に仕えた儒学者の新井白石でした。白石にとって、金銀の中身を減らしたお金は、為政者が民をあざむく不正なものに映ったとされます。物の値段が上がって人々の暮らしが苦しくなったのは、重秀が貨幣の質を落としたからだと考え、繰り返し重秀を批判しました。
白石の働きかけもあって、重秀は正徳2年(1712年)に勘定奉行を罷免され、翌年に世を去りました。その後、白石の主導で正徳4年(1714年)に、金の割合と重さを慶長小判の水準にほぼ戻した正徳小判がつくられます。図で棒がほぼ元の長さまで戻っているのがこの小判です。白石の考えは、お金の中身を正しく戻せば物の値段も落ち着くという、筋の通ったものでした。
ところが、中身を戻すということは、同じ量の金からつくれる小判の枚数が減るということでもあります。世の中に出回るお金の量が絞られると、今度は物の値段が下がり始めたとされます。物価の下落は、お金を持っている人にとってはありがたい面もありますが、物を売って暮らす人や、米を売ってお金に換える武士にとっては収入が目減りすることを意味します。白石の良貨政策は、その後の米価の低迷、つまり現代でいうデフレに近い状態の一因になったという見方があります。
重秀と白石の対立は、どちらが正しかったかという単純な話ではないのかもしれません。重秀は経済の広がりに見合うお金の量を重く見て、白石はお金の中身の正しさと為政者の誠実さを重く見ました。どちらも大切な視点ですが、どちらか一方だけを突き詰めると、別の問題が生まれる。この緊張関係は、現代の金融政策をめぐる議論にもかたちを変えて残っています。
元文の改鋳 ― 吉宗の再挑戦
白石のあとを受けて政治を担ったのが、八代将軍の徳川吉宗です。吉宗は新田開発などで米の収穫を増やすことに力を入れましたが、米が増えるほど米価は下がり、米で収入を得る武士の暮らしはかえって苦しくなりました。米将軍と呼ばれた吉宗が、享保15年(1730年)に大坂堂島の米市場を公認したのも、米価を支えるための手立ての一つだったとされます。
それでも米価の低迷はなかなか収まりませんでした。そこで吉宗の政権は、元文元年(1736年)に再び小判の金の割合を下げる改鋳に踏み切ります。元文小判は金の割合が約66%、重さも慶長小判より軽くされ、1枚あたりの金の量は慶長小判の6割弱になったとされます。白石が戻した中身を、再び減らす選択でした。改鋳にあたっては、江戸町奉行として知られる大岡忠相も関わったと伝えられています。
元文の改鋳は、お金の量を増やして物の値段、とりわけ米の値段を引き上げることを、はっきりと狙ったものだったとされます。そしてこの改鋳は、米価の回復と物価の安定に一定の成果を上げたと評価されることが多く、元文の小判と銀貨はその後80年ほどにわたって使われ続けました。一度は不正なものとして退けられた方法が、時と目的を変えて再び選ばれ、今度は比較的うまくいったと見られているのです。
同じ改鋳でも、元禄と元文とでは置かれた状況が違いました。元禄の改鋳は幕府の財政を補う出目の確保が大きな目的だったとされ、その後の銀貨の改鋳も重なって物価の混乱を招いたと批判されました。元文の改鋳は、物価の下落に悩む経済にお金を行き渡らせることが目的で、景気の後押しとして働いたと見られています。同じ道具でも、何のために、どんな状況で、どれだけ使うかによって結果が変わるという点は、歴史から引き出せる教訓の一つでしょう。
再評価される荻原重秀
長いあいだ悪役として語られてきた重秀ですが、近年では評価を見直す声も聞かれます。元禄の経済の広がりに対してお金が足りなくなっていたのなら、通貨の量を増やすことは理にかなった対応だったのではないか。金銀の産出が減るなかで、金属の重さに縛られないお金のあり方を、いち早く実行に移した人物だったのではないか。冒頭で紹介した「瓦礫でもかまわない」という言葉が、現代の紙幣に通じる発想として引き合いに出されることもあります。
現代の多くの国の通貨は、金と交換できることを前提にしていません。お金の価値は、発行する中央銀行への信用と、物価を安定させるための仕組みによって支えられています。日本でも、物価の安定を図ることは日本銀行の大切な目的とされています。お金の量をどう調整するかを、法律で定められた独立した機関が判断するという現代の仕組みは、金属の重さとは別のところでお金の価値を支えようとする試みだと言えるでしょう。
ただし、重秀を現代の金融政策の先駆者とそのまま重ねるのは行き過ぎかもしれません。重秀の改鋳には幕府の財政を補うという目的が色濃くあり、物価を安定させるための仕組みが整っていたわけではありませんでした。お金をつくる側が、自分の財布を満たすためにお金の量を増やすことには、物価を不安定にする危険がつきまといます。現代の多くの国が、お金を発行する中央銀行と、税金を集めて使う政府の役割を分けているのは、この危険を歴史から学んできたからだとも考えられます。
現代の私たちが持ち帰れること
一つ目は、お金の額面と中身は別物だということです。元禄小判も慶長小判も同じ一両でしたが、含まれる金の量は大きく違いました。現代のお金には金は含まれていませんが、物価が上がれば、同じ一万円で買える物の量は減ります。額面が変わらないことと、価値が変わらないことは同じではありません。預金の残高が減っていなくても、物価の上昇に追いつかなければ、実質的な価値は目減りしていることになります。
二つ目は、物価の動きには複数の原因が重なっているということです。元禄の物価上昇には、改鋳のほかに地震や噴火、凶作といった要因も重なっていました。ニュースで物価の数字を見るときも、何が値上がりを引き起こしているのかに目を向けると、一時的な動きなのか、続きやすい動きなのかを考える手がかりになります。
三つ目は、お金の量を絞りすぎても増やしすぎても問題が起きるということです。重秀の時代には物価の混乱が、白石の時代には物価の低迷が問題になり、吉宗の時代にようやく落ち着きどころが見つかったとされます。ちょうどよい量を見つけるのは、三百年前もいまも簡単ではありません。だからこそ、自分の資産を考えるときには、物価が上がる局面と下がる局面のどちらにもある程度耐えられるよう、置き場所を分けておくという考え方が大切だとされています。
タルムードの視点 ― 奪われうる富と、分けて備える知恵
ユダヤの伝統には、「学びは富にまさる。富は奪われうるが、学びは奪われない」という趣旨の言葉が伝えられています。元禄の改鋳は、盗まれたわけでも失くしたわけでもないのに、手元の小判の値打ちが変わりうることを示した出来事でした。富は、自分の外側の出来事、ときにはお金を発行する側の判断によっても目減りすることがあります。そうした変化を前にしたとき、お金の仕組みを理解しているかどうかは、慌てずに状況を受け止められるかどうかを左右するのかもしれません。
また、「人は常にその財を三分すべし」という言葉も伝えられています。土地と商品と手元の現金に分けておけという、実務的な助言です。古い小判をしまい込んだ人々は、良い小判を守ろうとしましたが、それはお金という一つの置き場所のなかでの工夫にとどまっていました。お金の価値そのものが変わりうるのであれば、性格の違う置き場所に分けておくことが、どの時代にも通じる備えになるという読み方ができます。
参考情報
江戸時代の貨幣と改鋳の歴史については、日本銀行が貨幣博物館などを通じて解説を公開しています。現代の日本の通貨制度や貨幣の製造については、財務省が情報を公開しています。本記事の小判の重さや金の割合は一般に知られている概数で、図の金の量はそれらを掛け合わせた推計です。資料によって数値に幅がある点にご注意ください。